南谷の自分探し

日常・趣味についてのブログです。

歴史イラスト1 織田信長 天下人

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織田信長 戦国時代 戦国武将 天下人

お久しぶりです。

戦国武将の代表格である織田信長のイラストを描いてみました。

革新的な英雄だったのか、残虐な魔王だったのか・・・。

それは後世のイメージであって本人でさえわからない事ですね。

余談ですが麒麟がくる染谷将太さん演じる織田信長が印象的でした。

多分そっちの影響を受けているかな?(笑)

ではでは。

自作掌編小説「傷心と童心」

 自作掌編小説第二回です。

 

 

 ある八月の事だった。私はリュックサックと赤い野球帽を被り、厭に塞ぎ込み、逃げるように炎天の下を歩いた。砂利道がずうっと続いている。そこから十字を描くように田んぼを隔て、向かい側の木陰の脇に老婆が二人ばかり座っている。私は足がぶるぶると震えた。汗がじわじわとただれていく。私が歩いているところから二、三歩ほど端に寄り、荷物を降ろして金属の、これまた熱さの通った水筒を取り出した。それから一口グイと飲み干すと、私は老婆の座っていた木陰に向けて歩き出した。老婆はもういなかった。

 陽の当らない、丁度腰を据えられる程度の石に、のっそりと尻を落とすと、陰になった石の、じわじわとした冷たさが尻もとに広がった。私は水筒の水をもう一杯注いだ。それからしばらくぼんやりと向かい側の山を見ていた。蝉の声が、喧しく鳴り続けていた。私はそれ以上に何かを感じることはできなかった。

 

 しばらく目をつむっていたらしい。目を開くと、陽がやや傾いていて、目の前の田んぼを橙色に染めかけていた。なんとなしに足元を見ると、蟻が長蛇の列を作って餌を運んでいた。蟻の一匹、二匹に唾をかけてやろうとも思ったが、可哀そうな気がしてやめた。それから蟻の列の先を見ると、少年が二人、銀色のバットと茶色のグラブ、もう片方の少年は金のバットと黒のグラブをもって、白球を交互に投げ合っていた。少年たちは夕陽に照らされて眩しく見えた。

 私は腰を上げた。足が少年たちのあとを付いていく。少年たちは鋭く曲がった山道の角を登り、私も歩いた。木陰の隙間から、そびえ立つ照明が見える。子供たちのキンキン声が聞こえる。私は急ぎ足になった。

 しばらく登ると、白土が広がっていた。少年たちは子供の中に混じっていて、どれが彼らであったかは見当がつかない。大人の姿は見えなかった。

 私は土手の傾斜に腰を掛けた。子供たちは三角状に段ボールの欠片を置き、一人が球を投げると、相手はそれを打った。子供たちは騒いでいた。蝉の音は聞こえない。

 隣を見ると、老婆が二人、立ち止まって子供たちを見ていた。頑張れ、よしよし、たくましいねエ、そんな言葉が聞こえてきた。

 それから大きな少年と、小さい少年が相対した。私にはそれが気の毒に見えた。

 大きい少年が、白球を投げる。小さい少年が、振る。空を切った。二人には微妙な、二人だけの、小さく、深遠な世界があった。私は目を開いたまま、唾を呑んだ。

 大きい少年が、投げた。小さい少年が、振る。

 きいん!

 小さい少年のバットに白球が当たり、私の前を貫き、落ちた。小さい少年は三角状の白土を回った。小さい少年は、私にもわかるような白い歯を見せて、坊主頭を子供たちに撫でられているようだった。老婆も、笑っていた。

 私は腰を上げた。

「もう少し、頑張るかい」

 どこまでも続く砂利道も、偶には悪くなかろう。私は夕陽に照らされた道を引き返していった。

 

                                   了

自作掌編小説「鼠を飼う」

掌編小説(?)を書いてみました。

 

「面白い!」と言うよりは「難しい……」作品に仕上がっています。

 

六百字程度ですのでご一読していただければ幸いです。

 

以下本文。

 

 六月。雨は明けず。父の小屋に入り、呆ッと闇を眺める。

 螺旋のロープの歪みが目に付くと、チウチウと啼く鼠が一匹居る。鼠を見ると、ロープの紐くずが散在する。

 僕は想う。親のない鼠の心寂しさを。

 隅の皮袋にある馬鈴薯をひとつふたつ取り出す。僕は鼠に向けて転がす。鼠、馬鈴薯から退いたあと、その端の固まった泥くずに鼻先を当てる。

 僕は感じる。鼠の微かな鼓動を。

 鼠、馬鈴薯にかじりつき、チウチウと啼く。鼠の歌、僕に響く。

 

 翌日。雨未だ止まず。小屋に戻って鼠を探す。

 鼠、馬鈴薯のある皮袋を漁る。

 僕は一息置いてそれを見やる。鼠は僕を見る。なんということはない。鼠、僕に懇願する。僕は馬鈴薯をまた一つ取り出して、鼠に転がす。鼠、馬鈴薯を肚に掻っ込む。

 僕は覚える。鼠を秘密のままに飼う好奇心を。

 僕は怯える。僕の良心が、鼠の変心を招くことを。

 

 翌日。雨上がる。小屋に入って恐々する。

 父既に小屋に入り、鼠を捕らえて始末する。

 父は言う。「こいつが馬鈴薯を食い荒らした」と。

 僕は悲しむ。鼠の運命を、僕が決めたことを。

 僕は後悔する。鼠など、目に留めなければ、悪獣として嫌悪すべきものでしかなかったことを。

 僕は恐怖する。僕が鼠に対して向けた、エゴイズムを。

 

 以来僕はこの時期になると、あの日の鼠を思い出す。

 僕は思う。以後僕は何者とも交わるまい、と。

 僕が交わる事、即ち残酷な慈悲である、と。

 

                                    了

 

 

 

自作日本史漫画 旧石器時代編 1

 

お久しぶりです。

1ページ漫画を描き始めました。

日本史の勉強とアウトプットの兼ね合いも含めてです。

創作が大いに含まれています。

苦手な方はブラウザバック推奨です。

 

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群馬県岩宿にて打製石器を発見したことから、日本における旧石器時代の発見者とされる相沢忠洋さん。

 

それまでの日本では旧石器時代の存在は否定されていたんですね。

 

相沢忠洋さんの名前は岩宿遺跡と一緒に教科書で拝見した名前かも知れませんね。

 

続きは後日。

 

それでは!

 

↓参考文献です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↓イラスト制作に使用させていただいている液タブです。

 

 

 

悩める青年 老子と格闘中 三

老子をちまちまと読み進めています。

今回は第五章について気になった個所を引用・解釈していこうと思います。

第四章まではこちらです。

 

antj.hatenablog.com

 

 

antj.hatenablog.com

 

[第五章 心を無にする!]

 

 

早速ですが、引用です。

――聖人は仁ならず。百姓を以て芻狗(すうく)と為す。

岩波文庫 「老子」 第五章)

 

老子さんの「聖人観」が見えてきました。

 

老子さんの言う聖人とは仁を持っていないのですね。百姓を犬も同然と言っています。

 

なんだか中国の思想家って仁愛、仁徳を説いてそうですよね。もちろん浅学の身の勝手な印象ですが、当たらずとも遠からずではないでしょうか。

 

ところが老子さんは「聖人はそんなに優しくないよ!」と言っているのです。少し驚きです。

 

世間的な印象と実際の老子さんの発言にギャップがあるのは、彼が中原から離れた楚の国の人ということで、仁のイメージの一端を担っている儒家の一派と相容れない考え方にあると思うのですが、冗長になるのでここでは伏せます。

 

同章の最後には、

 

――多言はしばしば窮す、中を守るに如かず。

岩波文庫 「老子」 第五章)

 

と言っています。

 

以前にも不言の教えを行うという言葉が出てきましたね。似た意味合いにとれます。

 

あまり多くを語るより、心を落ち着けてつつましく生きていこう、と言っているのですね。

 

「知」を批判的に見たり、「聖人に仁は無い」と言ったり、老子さんの理想像はあくまでも「無」であり「自然」です。

 

老子さんに言わせれば聖人ですら「百姓を犬として扱う」のですから、人の営みによって作られた概念や雑念を否定的に言っているのです。

 

賢しい多言を避け、心を静かにして過ごそうと教えているのかもしれません。

 

現代人は忙しいです。それに追随するようにストレスが多い。誰もが匿名で人を叩く環境もあります。職場、学校、私生活と知や気を使う場面が多いのです。

 

知は生活を豊かにしました。

 

一方で代価を支払った豊かさにも取れます。

 

はっきり言って知が武器になるこの時代に老子さんの思想は相慣れないものかもしれません。ですが知によって育まれた現代の文明に疲れた人にこそ老子さんの言葉は胸に響いてくると思います。

 

老子さんの言うように、疲れたらいったん無理から離れて心を落ち着ける。

 

そんな時間を作ってみても良いのかもしれませんね。

 

 

老子 (岩波文庫)

老子 (岩波文庫)

 

 

悩める青年 老子と格闘中 二

先日は老子 第一章~第三章までを考察してみました。

 

antj.hatenablog.com

 

今回は第四章について考察・解釈をしてみようと思います。

 

相変わらず「ジャイアントはこう読んだよ」なので肩の力を抜いて付き合っていただけたら嬉しいです。

 

[第四章 老先生は知恵がお嫌い?]

 

以下岩波文庫様より、第四章書き下しの一文です。

 

――其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。

岩波文庫 「老子」 第四章)

 

鋭には「賢い」といったニュアンスが含まれます。それらを挫くと老子さんは言っています。

 

以前の記事で紹介した第三章でも、民を無知無欲にさせよと言っています。 なので知という概念をよく思っていないという点で、第三章とリンクしていますね。

 

思うに、第三章でふれた「知恵者に国を回させるな」と同様、老子さんに言わせれば人や国家の充実は知恵では補填できないようです。知恵で凝り固まった考えを解きほぐしてあげて、雑念を捨てることだと老子さんは言いたいのではないでしょうか。

 

知恵で国を回すこと、人格を形成することは前記事でも触れたように小賢しい考えに陥りがちになります。知の危うさ、限界を示唆しているのではないでしょうか。

 

だから老子さんは知恵を解きほぐして自然と同化しましょうと言っていると考えています。あくまで僕なりの解釈です。

 

知恵が人を眩ませるのかはわかりませんが、現代社会では知恵によって発展しています。ですが一方でたくさんの問題を孕んでいるんですね。僕は老子さんの言葉を真っ向から否定することはありませんが、老子さんの主張は今の社会の問題を予知しているような内容が含まれていると思います。それは老子さんの時代から2000年以上経った今でも変わらないです。

 

なぜか。それは人間が根本的に変わらない生き物だから。

 

だから老子さんの頃から時代を経ても戦争は起こりますし貧富の差や贅沢と質素の差があるんですね。戦争や差が起これば当然あらゆる感情が生まれますから新たな問題を生んで……の負の連鎖です。

 

知は人間の特権です。だからこそ知の使い方には気を使わなければいけません。

 

老子さんは、そんなことを言っているのかもしれませんね。

 

 

老子 (岩波文庫)

老子 (岩波文庫)

 

 

悩める青年 老子と格闘中

現在、岩波文庫の「老子」を読んでおります。

 

気に入った個所をノートに箇条書きして自分なりの解釈を長々と書くスタイルです。

 

哲学書ですのでわからないところもありますが、難しい箇所や言葉はいっそのこと読み飛ばしています(笑)いつかわかる日が来るのかな~。

 

さて、その老子について自分なりの解釈を考えました。

あくまでも「ジャイアントはこう読んだ」ですので、意見の食い違いがある事はご容赦ください。

今回紹介するのは第一章~第三章までです。

 

[第一章 自然観 最も難しい入口]

[第二章 聖人は多くを語らず!]

[第三章 政治に言及! ちょっと異色の章?]

 

 

 

 

老子 (岩波文庫)

老子 (岩波文庫)

  • 作者:老子
  • 発売日: 2008/12/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

 [第一章 自然観 最も難しい入口]

 

――道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。

(岩波文庫 「老子」 第一章)

 

これは老子 第一章の書き下し文の一部です。

 

いきなりなんじゃこりゃって感じですよね(笑)

 

第一章から道という概念が出てきましたよ。この道という言葉はどうも老子さんのこだわりのようで、この後もちょくちょく出てきます。でも第一章からこんなことを言い出すので入口でつまずいちゃう感じですよね(笑)

 

僕はこの「道」こそが老子さん永遠のテーマなんじゃないかと思っています。まあ、道家というカテゴリーが組まれるくらいですので。道に関しては僕自身、これから皆様と勉強していきたいと思います。

 

「道」が老子さん永遠のテーマであり、その正体がわからないとすれば、もう一つの言葉に注目します。「名」とは何なのでしょう。上記の書き下し文に続き、老子さんは言います。

 

――名無きは天地の始め、名有るは万物の母。

 

「天地が生まれる頃には名は無かった。あらゆるものが生まれて名が有る」と読んでみました。……と言われてもピンときませんよね。僕もよくわからないです(笑)

 

ただこの部分、のちの章に通じるものが出てきます。天地の始めであるとか、万物の母であるとか、老子さんの「自然観」が見えて来るようです。天地は文字通り自然界の事ではないでしょうか。天地の始めとなると、現代風に言えば宇宙の誕生ともつながるテーマに聞こえますよね。この世はどのように始まったのか、そんなことを老子さんは考えていたのかもしれません。そして万物の母というのも自然に存在するあらゆる物体を指していると解釈しています。

 

仮にそう考えると老子さん、すごく壮大な自然観を持っています。で、のちの章を拝見すれば本当に自然というものを神聖視しています。

 

あらゆるものが存在しているがゆえにそれに名がつく、というところでしょうか。

 

第一章から難しい入口でしたが、この頃からすでに老子さんの考えの根底が見え隠れしてきますね。

 

 

[第二章 聖人は多くを語らず!]

 

 

第二章にはおそらく「道」と双璧であろう老子さんの第二のテーマが出てきます。

 

以下僕の気に入った個所の引用です。

 

 

――是を以て聖人は無為の事に処り、不言の教えを行う。

岩波文庫 「老子」 第二章)

 

 

さて、聖人は何となく字面で「まあ、老子の理想とする人なんだろうな」と思われますが、その後「無為」という難しい言葉が出てきます。

 

老子さんの「ワシの言葉を簡単に理解させてたまるかい!」という言葉が聞こえてきそうですね。ですがこれも難しいのでいったん置いといて「不言の教えを行う」を見ていただければ何となく解釈はできそうです。

 

不言の教えとは文字通り言葉によらない教化や指導の事ですよね?

 

「いちいち言葉で語るんじゃない! 俺を見て学べ!」と聞こえてきそうで潔いですね(笑)ここで老子さんの理想とする「聖人」の在り方が見えてきます。

 

「聖人は無為の立場に身を置いて言葉に頼らないで人に教える」と読めば、無為の意味は分からなくても何となく理解できると思います。背中で語るリーダー像を想像しますね。

 

 

[第三章 政治に言及! ちょっと異色の章?]

 

 

第三章は自然観が冴える老子さんが珍しく政治に言及している章です。

 

以下引用です。

 

――是を以て聖人の治は其の心を虚しくして其の腹を満たし、その志を弱くして其の骨を強くし、常に民をして無知無欲なら使め、夫の知者をして敢えて為さざらしむ。

岩波文庫 「老子」 第三章)

 

どうでしょう。聖人が治める政治というのは「心を虚しくしようよ」「志を弱くしようよ」などとネガティブなニュアンスが含まれていそうですね。

 

常に国民を無知無欲(知識も欲もない状態)にしようとまで言っています。老先生、「知」というものが嫌いなのでしょうか?(苦笑)

 

ただ、知識を身につけるな!と言っているのは「夫の知者をして敢えて為さざらしむ」に繋がるように、「知恵者に国を回させてはいけない」と言っているようです。なぜでしょう?

 

現実に知恵だけがすぐれた人ってどことなくズルい思考の人が多いじゃないですか。ここにしっかりとした人格が形成されて初めて立派な人となりうるということです。

 

老子さんが生きた時代は戦いの時代ですから、そりゃ立派な王もいればズルい王様もいたわけです。そんなズルい王様に政治を任せるぐらいなら、最初から知恵なんて身につけない方がマシだ、と言っているのかもしれません。

 

余談に逸れますが、知という概念が人間の文化で形成されたものなのです。だからこそ人類がこうして発展しているわけです。でも、一方で自然の破壊とか叫ばれてますよね? 知というのは使いようによっては凶器にもなりますし老子さんの考えに沿えば、「人間は愚かしくて小賢しい生き物だよ。そんな知識よりも自然でいようよ」と言っているように聞こえるんですよね。それが正しいかは別として、この第三章というのは老子さんの自然観や政治観を知れる貴重な章だと思うのです。

 

 

いかがだったでしょうか。

 

老子は難しいし入口で足踏みしてしまう気もしますが、すっと身近に入っていただけましたか?

 

僕はそれまで難しい本は読まないまま何となく老子を手に取ってみたのですが、よく精読してみると今の人たちの心にもスッと入ってくる気がします。

 

これからも老子に関係のある事ないこと発信していこうと思います。

 

ではまた!